私が最初にこの樹を訪れたのは、2000年の夏でした。当時、まだ巨樹に対する知識が少なかったこともあり、全国でも有数と言われるこのヒノキに対面して、不遜にも「大した樹じゃない」などと思ったのを覚えています。お恥ずかしい限りです。何故そう思ったのかというと、太いと言われるこの樹が、私の地元・府中にいるケヤキよりも明らかに細かったからです。しかし、樹種の違いなどをまったく考慮に入れない浅はかな感想だったのです。
奥多摩駅からバスで約20分、深い谷を見下ろす倉沢でバスを降り、少し先へ歩くと、巨樹画家・平岡忠夫氏の絵を用いた大きな看板があります。そこから右手の尾根に登ること10〜20分、正面に大きな樹影が見えてきます。
石垣と岩盤の上に根を張った巨樹は、5mほどの高さから幾本もの幹に分かれ、それぞれが上に向かって力強く伸びています。樹形からすると、数本の樹による合体樹のように思われます。1904年に記された本多静六博士の「森林家必携」では「本邦第一の檜」と紹介されています。近代的な全国調査が行われている今では樹種別の上位10傑から外れてしまっていますが、幹周6.3mという数字は、それらとそう大差ない数字です。
この樹をめぐる有名な話に、前述の平岡忠夫氏の避雷針設置運動があります。氏がはじめてこの樹を訪れた際、激しい雷雨にみまわれ、ヒノキへの落雷を心配した氏が運動した結果、研究者の協力も得て、新方式の避雷針を開発・設置することができました。詳しい話は、平岡氏の「あした晴れたら森へ行こう」(リヨン社)の冒頭に記されています。
日原はもともと修験の地だったそうで、この倉沢にも修験にまつわる伝承や遺構がみられるそうです。このヒノキ自身も信仰の対象だったと思われます。ヒノキを正面にすると、その左右にモミの大木が配されています。これはまさに神社でよく見られる「神前配置」と思われ、ヒノキが御神体であることを示していると言えるでしょう。