新青梅街道の、その名も「三本榎」という交差点をほんの10メートル南に入ったところに、この大きなエノキが立つ公園があります。公園と言っても、あるのはベンチ、水場、それに草花に囲まれたこのエノキだけ。そう、この公園はエノキのためにある公園なのです。
約200年前のこと、腕自慢の若者が弓矢の腕を比べるために、近くの山から弓を引き、矢の落ちた場所にエノキを植え、それぞれの名をつけた、という伝説があり、このエノキには乙幡榎という名前があります。近くには道路を挟んで西側に加藤榎、さらに西の配水場の中に奥住榎があります。加藤榎は痛みが激しく、奥住榎は大正時代に植え替えられたものですが、乙幡榎は、10本以上の支えがあるとは言え、なかなか美しい姿を見せてくれています。
弓比べの話が史実なのか、あるいは「伝説」の域を出ないのかは、どうもはっきりしません。しかし、三本榎自身は古くから土地の人々に愛されてきたことは確かです。すぐ南側を通る引又街道は江戸時代から明治にかけての重要な生活道路だったそうで、人々はこのエノキの根元で休息を取ったといわれています。乙幡榎の根元には、今でも庚申塚があり、加藤榎の根元にもかつては庚申塚があったそうです。また、エノキの芽吹きで桑の相場を占うなど、生活に密着していた様子が伝えられています。
歩いて旅をする昔の人々にとって、大きな樹は目印であり休憩所でした。多くの街道筋には今でも大きな樹が残され、何らかの言い伝えがあるものです。しかし、現代では目印は他にもたくさんあるし、GPSでどこにいても現在位置がわかる時代になりました。それはそれで便利な世の中ですが、旅の途中で樹を見て心安らぐ思いは、昔の人々ほどではなくなったはずです。道路事情が複雑になり、樹を目印にしてはいられない時代ですが、それが少し寂しく思うのは、単なるノスタルジーでしょうか。ひょっとするとエノキの樹も、根元に人が集わなくなって寂しく思っているかもしれません。
右から 加藤榎、奥住榎
加藤榎は痛みが激しく
1989年と1992年に
外科手術を受けたそうだ。
奥住榎だけが大正時代に
植え替えられた2世。
見た目にもほかのエノキ
より若い。 |
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